杉並の路地の先
なるほど女神だ。そう思った。
私の住まいは、さる杉並の路地の奥にある。
このあたりは古くからある大きな通りから、
ふと中を覗き込むと、どうしても歩いてみたくなるような、
そして奥が見えないような路地がとめどなく続く。
整然としているようで迷宮のような雰囲気がどうしても気になり
また気に入ってしまった点だ。
そのある一角に、数十年、時間が止まったような西洋館があり
その西洋館が窓から見えるのも気に入った点である。
休みの日はその西洋館の見える窓に向かって
コーヒーを飲み本を読むのが好きだった。
或時から時々そのうちに一台の古いシトロエンが来るようになった。
なぜか、そのクルマが来るときは、どんよりした厚い雲の出ているのである。
そんなところに、鉛色のシトロエンが、黄色いライトを点けてやってくる。
そんな日は軽く頭痛がするようなアンニュイな日が多いのだ。
ある日、やはり曇った休日、私が窓に向き合って本を読んでいた。
江戸川乱歩の「黒蜥蜴」である。
江戸川乱歩の小説とは、スタミナの増減が露骨に文体に表れているようで、
しかし、きっと本人は大真面目で書いているに違いないことを慮ると、
何しろ滑稽さの方が勝ってしまうのがおかしいが、
一度興が乗ってくると、こういう文章をして、三島由紀夫に戯曲にしようと
想わしめたのだろうと感心した。
そんな、興が乗ってきたときに書き進めたのに違いないと
思われる部分に差し掛かったころ、
井の頭通りからビートを伴った懐かしい響きがするのを
かすかに感知した。
案の定、例のシトロエンだ。
そして、いよいよ緑川夫人が何かをやらかそうかという頃に差し掛かったときである。
たまたま視線を洋館に向けたとき、シトロエンから降りてきた人と視線が合った。
私は思わずハッとした。
私が視線を外そうとすることを許さない力強い訴求を感じた。
緑川夫人はひどい人だが、おそらく江戸川乱歩にとって、ある種の女神を写したのではないか?そう思っている。
横にいるシトロエンも何ともいえず「たたずむ」のだ。
下々では抗うことのできない強烈な魅力を持っている。
なにの化身だろうか?
なるほど女神だ。私はそう思った。
photographer:Masaru Mochida
model:Asuka Nagatsuyu
writter:Kentaro Nakagomi
citroen DS
