SIMCA 1000

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「お待たせしてしまって、すみません。」
彼女は間違いなく、そうとうの時間、ここで待っていた。
水曜日に私は彼女の会社を訪問した。ちょっとした提案を持って、情報交換をしに行ったという感じだろうか。古くからよく知っているその人を、時々私はそんな風に訪ねることにしていた。
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いつも行くと、いつも新しい話題をポンポンと紹介してくれる。そしてひとしきり話すと、
「で、君は最近どんな調子?」そんな風に私の話しをする番になるわけである。
まあ、そんなことはとうに知っているかもしれない。しかし「ほお、なるほど。それは興味深いね」と肯定と言うか「相づち」をうっている。まあ「元気にしてます」という代わりに、あれこれ報告をするような気でいるのだ。
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しかし、その日ばかりはすこし違った。僕も、そしてその人も、あるいはそうだったかもしれない。事前に「またちょっと寄ろうと思うのですが」と言ったら、前にお話しした私の仕事をやけにこまかく確認するようにたずね、私の意見を聞きたいとか具体的だったからだ。
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そんな風に言われると緊張する。何度も通った道、地下鉄の出口から運河沿いの小径もなんだかそわそわする。しかし、それでも何度も通った道。気がつくとその人の会社のエントランスについていた。
もう花が咲いたのか。
運河を望むエントランスの大きなガラス窓の横の梅の木には、まだ寒いと思っていたがもう花をつけていた。
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ご用件は?入口でそう訪ねる受付のその人。なん度か訪問しているが初めてお見かけするようだ。
花をつけている梅を見て、妙に緊張した心もふっと解き放たれたようだった。
その人と話しをしていろいろアドバイスを差し上げたら、何やら正式に仕事になるような風向きに。春とはこうしてくるのだなあ。さすがに少しオーバーだとは思ったが、とにかく嬉しくて心躍った。
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・・・
傘を、わすれた。あまりにも急に日差しが強くなり、季節にも関わらず汗ばむから、帰って来てから気がついた。開閉の様、フォルム、くるくるっと閉じた状態で振った時に弾き落ちる水の雫まで、なんだかとっても気に入っていたのだ。だから傘だが、随分寂しかった。
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あの人の会社に置いて来たのだろうか?ちょっと電話を・・・
と思ったときに電話である。あの人の「会社」からだった。
・・・
本日はお越し頂きありがとうございます。と通り一遍の社交辞令のあとで
「傘、お忘れになりませんでしたか?」
私を最初に迎えててくれた受付の人だとわかった。少し血の通ったような、温かさを感じた。
結局、金曜日に彼女が届けてくれるということに。
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金曜日、午後。
少し早めに行って近くのカフェで待つ。
大事な傘が返ってくると思うと、ほっとするような。
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そこに彼女がクルマでやって来た。
きょろきょろしている。約束の時間までまだ少しある。
早めの到着だ。
道路越しに声をかけようとしたその時、、、、やっぱりやめた。
しばらく眺めていることにした。
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季節にはまだ早い春の陽気。木々にも花をつけはじめるように。
春がこうして来るように。大事な傘が返ってくるんだから
嬉しく軽やかな心。
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約束の時間の5分前、私はフォンダンショコラを二つ注文した。
そして約束の時間ぴったりに、私は道路越し、彼女を呼んだ。
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「お待たせしてしまって、すみません。」
彼女は間違いなく、そうとうの時間、ここで待っていた。
だから私は、それを知っているのだ。
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全然、今来たところですよ。
そんなことより、今フォンダンショコラが来ますからそれを一緒に食べませんか?
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こうして大事な傘も戻って来た。かなり先取り、実にうららかな春の日の出来事である。
photogrpher:Masaru Mochida
model:MIZUHO
writter:Kentarou Nakagomi
special thanks:株式会社アウトレーヴ