「夢か、淡い記憶か、思い過ごしか・・・」
正直定かではないのだ。
春霞のような、ファウンテンで水を加えたアブサンのような色の自動車と、
傍らにたたずむ一人の女性のこと。
若いころ、住んでいた郊外の街の、
公園通りの並木を、間も無く抜けるかというあたりで、だったような。
手繰ろうとすると、どうも春独特の頭痛がしていけない。
そしてその記憶全体が霞の彼方に散り散りになっていくのである
だから、なにか思い過ごしか、妄想なのか、とさえ思うのである。
「碧いクルマと美しい君」のこと。
正直、定かではない。
春になり、
この堰を切ったように温かくなるその時をいつも精一杯味わいたいと思っている。
あのからりとしたうららかな太陽の元、
両手を大きく広げ「この時を待っていたんだ!」そう叫びたくなるだろう。
それでも夜になると、とはいえまだまだひんやりとした空気は
堪らなくなってしっとりとした湿度を帯びる。
次の季節への熱を帯びていきたいのだろうが、
そうそう簡単にはいかない感じ。何ともけなげだなあと思う。
こんな一進一退の冬が春に一歩を踏み出し、春は行き過ぎて夏の門までも叩く。
そんな季節の表情がいとおしいので、その時期に一度くらいは
必ず明け方までバーの一番奥のカウンターの関で、アブサンを呑むことにしている。
ふわっと甘い香りは鼻腔から脳裏の蒼い記憶を刺激する。
今日がそんな日。じっくりアブサンと向き合いながら、
明け方を待つことにしようか。
一口飲むと、この時期になるといつも思い出す。青い自動車に乗った君のこと。
なぜそんなところにたたずんでいたのですか?
クルマが故障でもしたのかしら。
その割に、あなたは何とも楽しげにクルマの中にいたではありませんか。
何が楽しかったのですか?
二杯目を呑むと、思い出す。
いましがたまで楽しそうにしていたあなたが、打って変わって
クルマのそばで何とも物憂げな表情をするあなたのことを。
泣いていたのですか?悲しかったのですか?待つ人が来なかったのですか?
どんなに思いだそうとしても、その表情の移ろい、思い出すことができない。
脳裏には、印象派の絵画のようなものが浮かびかけるのですが、大好きな旋律だったことだけは覚えているのに曲名の思い出せない音楽のもどかしさのような
「雲をつかむ」かの感触。
とても美しい人だったはずだけど、その容姿以上に微妙な表情が思い出せないことに、
妙な苛立ちを覚えるのだ。毎度のことながら。
三杯目に口をつけた頃。
次第に夜が明け、街が白々として来る。
マスターはそろそろカンバンにするという。
夜のひんやりとした空気のまま夜が明け、朝霧を帯びる。
アブサンばかり飲んでいたから、ちょっと胸がやけたりする。
「ああ、やってしまった」と思うものである。
始発まで一駅二駅と歩いていくと
その朝日と入れ替わりで次第に消えてゆく朝霧の裡に
そのクルマと美しい人のことも、意識からふわりと遊離するのだ。
ふらふらと歩いていると、いつも読むニュースレターのモータースポーツの欄で
「シトロエン、ポール・リカールを制す」の見出しを見る。
なんだか今年も僕は敗北したらしい。
霞む街に春を覚え、
霞が消えるともうすぐ夏の足音を聞くことになるでしょう。
僕にとっての「春」とは、
いつぞや見かけたような気のする「碧いクルマと美しい君」のこと。
ここだけの話。
photogrpher:Masaru Mochida
model:Haruka Shikishi
writter:N.K
special thanks:株式会社アウトレーヴ